1. ダイレクトメッセージ
あるブロックチェーンスタートアップのHRから、LinkedInでダイレクトメッセージが届いた。英語だった。
分散型技術を基盤にしたプロダクトを展開している企業で、エンジニアリングのシニアポジションを探しているという。プロフィールを見て声をかけたと書いてあった。
こういうメッセージ自体は珍しくない。だが今回は、読んだ瞬間に「面白い」と思った。技術スタックに既視感があった。分散システム、暗号技術、コンセンサスアルゴリズム——いずれもzenn.devで要素技術として出版していた領域と重なっていたからだ。
2. マウイの後で
このメッセージを受け取ったタイミングに意味がある。マウイ島ラハイナの経験の後だった。
2023年8月のラハイナ大火。歴史的な町が一夜にして消失した現場を目の当たりにした経験は、自分の中の何かを変えた。「失われるもの」の重さを、頭ではなく体で理解した。それがTokiStorageの原点でもある。
だが同時に、あの経験は胆力を鍛えた。人生で本当に怖いものを知った後、キャリアの選択肢に対する恐怖が消えた。英語で選考を受けること、海外の企業と対等に話すこと——以前なら二の足を踏んだかもしれない。だがラハイナの後では、それは怖いことではなかった。
3. すべて英語で
選考プロセスのすべてが英語だった。初回のメッセージから、カジュアル面談、技術的な質疑応答、チームとのカルチャーフィットの確認まで。
ここで大切なのは、自分が「純日本人」だということだ。帰国子女でもなければ、留学経験もない。2025年に家族でマウイ島に複数回滞在した経験はあるが、英語力の基盤はそれ以前に国内で築いたものだ。それでも、海外のスタートアップと英語で選考を進め、技術的な議論を交わし、最終的に自分の意志で辞退するところまで到達した。
英語力は一朝一夕に身につくものではない。だが、ある時点で「完璧な英語」を目指すのをやめた瞬間に、劇的に楽になった。コミュニケーションに必要なのは文法的正確さではなく、思考の明晰さだ。自分が何を考え、何を提案し、何に疑問を持っているかを正確に伝えられれば、多少の文法的不完全さは問題にならない。
技術英語は特にそうだ。アーキテクチャの議論、コードレビュー、設計判断の説明——これらは論理の言語であり、論理に母語の優位性はない。
4. ブロックチェーンのサンプル
選考が進み、サンプルプロジェクトの構築とデモを打診された。ブロックチェーン上で動作する小規模なアプリケーションを作り、技術力を示してほしいと。
正直に言えば、技術的には簡単だった。zenn.devで出版していた要素技術——スマートコントラクト、分散台帳、コンセンサスメカニズム——を組み合わせれば、デモレベルのプロダクトは数日で構築できる自信があった。
だが、手を動かす前に立ち止まった。
5. ポストブロックチェーンの自負
TokiStorageは、自分の中では「ポストブロックチェーン」だ。
ブロックチェーンが解こうとした問題——改竄不可能な記録、分散的な保管、信頼の担保——を、TokiStorageは別の方法で解いている。石英ガラスは物理的に改竄不可能だ。三層分散保管は、コンセンサスアルゴリズムではなく障害モードの独立性で信頼を担保する。国会図書館という制度的永続性は、どのブロックチェーンネットワークよりも長い歴史的実績を持つ。
ブロックチェーンの技術的要素を理解しているからこそ、その限界も見える。コンセンサスに依存するネットワークは、参加者が減れば脆弱になる。マイニングのエネルギーコスト、スケーラビリティの制約、51%攻撃の理論的リスク。「千年」というタイムスパンで考えたとき、ブロックチェーンは十分ではなかった。
だから石英ガラスを選んだ。サーバーもネットワークも電力も不要で、物理法則だけが保証する永続性。これはブロックチェーンの「次」ではなく、「別の解」だ。ブロックチェーンが目指したゴールに対する、より根本的なアプローチ。
6. 純日本人の英語攻略
ここに至るまでの英語力の構築について書いておきたい。同じ道を歩こうとしている人のために。
自分が英語を使えるようになった過程に、特別なことはない。特別なのは、やめなかったことだ。
技術ドキュメントを英語で読む。Stack Overflowで英語で質問する。GitHubのIssueを英語で書く。最初は時間がかかる。だが技術英語は語彙が限定されているため、半年もすればスピードが追いつく。読み書きはこれでいい。
問題は発音だ。日本人の英語が通じない最大の理由は語彙でも文法でもなく、発音にある。ここを徹底的に潰した。
ELSA Speak Speech Analyzerを使い、音素レベルで発音を矯正した。AIが一音ごとにスコアリングしてくれるから、自分では気づけない癖が可視化される。thとs、lとr、vとbの区別。日本語にない音素を、口の形と舌の位置から作り直す作業だ。
Google Geminiとの反復トレーニングも効いた。テーマを決めて英語で話しかけ、返答を聞き、また話す。人間相手だと気後れする反復練習が、AIなら何百回でもできる。OpenAIのtext-to-speechで模範的な発音を繰り返し聴き、口語のリズムとイントネーションを体に染み込ませた。ネイティブの発話を聴いて、その模倣精度を上げる。文法書では学べない、口語としての英語を体得する作業だ。
もう一つ意識したのは、極限までのシンプル化だ。2語表現——"Sounds good." "Makes sense." "Let's proceed." "Not quite." "Almost there."——こうした短いフレーズで意図を正確に伝える訓練をした。長い文章で説明しようとするほど破綻する。短く、正確に、意図だけを伝える。これが純日本人にとって最も効率のいい英語戦略だと確信している。
そして何より、基本構文の徹底だ。"Can I ...?" で許可を求め、"Could you ...?" で依頼し、"I'd like to ..." で意志を伝え、"What do you think about ...?" で意見を聞く。ビジネスの場で必要な行為——聞く、頼む、提案する、確認する——はこの数パターンでほぼ網羅できる。高度な表現を覚えるより、この基本を反射的に出せるまで叩き込む方がはるかに実戦的だ。面接でもミーティングでも、結局のところ必要なのは「許可を求める」「要求を伝える」「確認を取る」の3つであり、それぞれに対応する型が体に入っていれば会話は回る。
会話は別の筋肉だ。だが技術的な議論に限れば、事前準備で8割はカバーできる。自分のアーキテクチャを英語で説明する練習、想定される質問への回答を英語で用意しておくこと。残りの2割はその場の判断力で、これは日本語でも同じだ。
最も重要な転換点は、「英語ができる」から「英語で仕事をする」への意識の切り替えだった。英語は目的ではなく道具だ。道具の完璧さを追求するより、道具を使って何を作るかに集中した方がいい。不完全な道具でも、作りたいものが明確なら、十分に機能する。
英語力は完璧さの問題ではない。
伝えたいものの明確さの問題だ。
7. 辞退という選択
サンプルプロジェクトを作る技術力はあった。選考を通過する英語力もあった。マウイの後に鍛えられた胆力で、躊躇もなかった。
だが辞退した。
理由は単純だ。TokiStorageの方が面白いからだ。
ブロックチェーンのスタートアップで他人のビジョンを実装するより、自分の確信を形にする方を選んだ。技術的に簡単だったからこそ、その選択は明確だった。「できるからやる」のではなく、「できるけどやらない」——その判断ができるようになったことが、マウイ以降の自分の変化だと思う。
ヘッドハンターとの対話は無駄ではなかった。英語で選考を通過できるという事実が、自分の市場価値を確認させてくれた。海外のスタートアップと対等に技術議論ができるという経験が、TokiStorageを世界に向けて展開する自信の裏付けになった。
そして何より、「辞退できる」ということ自体が、バーンレートゼロの事業構造が与えてくれた自由だ。生活のために次の仕事を取る必要がない。だから、本当にやりたいことだけを選べる。
選択肢を持つことと、選択肢を行使しないことは、
同じ自由の表と裏だ。
「できるけどやらない」は、
「できない」とは根本的に違う。
その差を生むのは、技術と言語と胆力の積み重ねだ。